弁護ハック!-若手弁護士によるライフハックブログ

「弁護士 × ライフハック × 知的生産」をテーマに、若手弁護士が日々の”気付き”を綴ります。

弁護士法人を設立してみてわかった、課税上のメリットのこと。

はじめに

 私は、2018年に弁護士法人を設立し、それと同時に個人事業を廃止しました。

 その主たる理由は、消費税の納税を2年間繰り延べしたかったから*1なのですが(笑)、それ以外にも個人事業の所得金額が増えてきたことによって、法人を設立したほうが課税上のメリットがあるのではないかと考えたためでした。

 そして、顧問税理士に課税シミュレーションのソフトを開発してもらい、検討したところ、その当時の所得金額でも十分に課税上のメリットが見込まれることがわかり、さらには所得金額が増えていけばいくほどメリットが大きくなることがわかりました。

 そこで、支店設立の予定などはありませんでしたが、法人成りに踏み切った次第です。

 

 その後、私は5年間にわたって弁護士法人を運営してきましたが、思ったとおりの課税上のメリットを享受してきました。そのポイントは以下のとおりです。

Point!

  1. 所得税は、課税所得が900万円を超えると税率33%、課税所得が1800万円を超えると税率40%というように税率が上がっていく(累進課税制度*2)。そのため、課税所得が900万円を超えたあたりで法人税等との税率の逆転が生じる
  2. そこで、法人を設立することにより、高額の所得税負担を回避することができる。なお、法人設立後、自分は役員報酬として給与所得を得る立場となるが、これには給与所得控除が適用されるため、個人事業主の時代よりも所得税・住民税の金額は安くなる。

 

具体的な計算をしてみよう

 抽象的に説明しても伝わらないと思いますので、何はともあれ計算してみましょう。

 その際、売上高を3000万円5000万円2000万円のパターンで検討し、役員報酬額についても場合分けしました。

 なお、計算の前提条件は以下のとおりとしました。

 

  • 弁護士法人、個人事業の場合とも、代表弁護士は東京都弁護士国民健康保険組合に加入しているものとします(したがって、健康保険料には差が生じないものとします。)。なお、健康保険料の金額は、40歳未満の組合員1人+40歳未満の家族2人として計算しました。
  • 代表弁護士は、弁護士法人の場合には厚生年金保険、個人事業の場合には国民年金に加入しているものとします。
  • 弁護士法人には法人会費がかかります。その金額は単位会によって異なりますが、本記事では私の所属する千葉県弁護士会の定める金額を基準としました。なお、社員(役員)数は1人を前提としています。
  • 代表弁護士には配偶者がおり、配偶者控除の要件を満たしているものとしました。
  • その他事業に要する必要経費は、一律に売上高の3割と仮定しました。
  • 弁護士法人の資本金額は1000万円未満としました。

 

売上高3000万円の場合

 まず、売上高3000万円の場合を以下に示します。

 

A.弁護士法人

 

月額70万円

月額100万円

月額150万円

法人の売上高(年間)

3000万円

3000万円

3000万円

役員報酬(年間)

840万円

1200万円

1800万円

年金保険料(事業主負担分)

71万3700円

71万3700円

71万3700円

法人会員の弁護士会費

11万7360円

11万7360円

11万7360円

上記以外の必要経費(年間)

900万円

900万円

900万円

消費税(売上高÷1.1*0.05)

136万3600円

136万3600円

136万3600円

法人の税引前純利益

1040万5340円

680万5340円

80万5340円

法人税等

284万4700円

166万2600円

25万0000円

法人の純利益

756万0640円

514万2740円

55万5340円

 

 

 

 

役員報酬(年間)…a

840万円

1200万円

1800万円

健康保険料(弁護士国保)…b

66万2400円

66万2400円

66万2400円

年金保険料(個人負担分)…c

71万3700円

71万3700円

71万3700円

給与所得控除

-194万円

-195万円

-195万円

基礎控除

-48万円

-48万円

-48万円

配偶者控除

-38万円

-38万円

-38万円

役員の所得

470万3900円

781万3900円

1381万3900円

所得税…d

52万4000円

118万5000円

308万6000円

住民税…e

47万4000円

78万5000円

138万5000円

役員の手取り額(a-b-c-d-e)

602万5900円

865万3900円

1215万2900円

 

 

 

 

法人の純利益+役員の手取り額

1358万6540円

1379万6640円

1270万8240円

 

B.個人事業

個人事業の売上高(年間)…a

3000万円

必要経費(年間)…b

900万円

個人事業税…c

90万5000円

消費税(売上高÷1.1*0.05)…d

136万3600円

健康保険料(弁護士国保)…e

66万2400円

国民年金保険料…f

19万8240円

基礎控除

-48万円

配偶者控除

-38万円

青色申告特別控除

-65万円

所得

1636万0760円

所得税…g

394万4000円

住民税…h

164万0000円

個人事業主の手取り額(a-b-c-d-e-f-g-h)

1228万6760円

 

 以上の計算によれば、役員報酬がいずれの金額の場合でも、「A.法人の純利益+役員の手取り額」が「B.個人事業主の手取り額」を上回りました

 その差は、役員報酬が月額150万円の場合で約42万円役員報酬が月額70万円の場合で約130万円役員報酬が月額100万円の場合で約151万円となりました。

 なお、弁護士法人の場合には、厚生年金による年金積立額が個人事業の場合と比べて+122万9160円ありますので、実質的な差は更に大きくなるといえます。

 

売上高5000万円の場合

 次に、売上高5000万円の場合を示します。なお、役員報酬の月額によって課税上のメリットがどのように変化するかを詳しく見るため、月額100万円、150万円、200万円、250万円の4パターンで検討してみます。

 

A.弁護士法人

 

月額100万円

月額150万円

月額200万円

月額250万円

法人の売上高(年間)

5000万円

5000万円

5000万円

5000万円

役員報酬(年間)

1200万円

1800万円

2400万円

3000万円

年金保険料(事業主負担分)

71万3700円

71万3700円

71万3700円

71万3700円

法人会員の弁護士会費

11万7360円

11万7360円

11万7360円

11万7360円

上記以外の必要経費(年間)

1500万円

1500万円

1500万円

1500万円

消費税(売上高÷1.1*0.05)

227万2700円

227万2700円

227万2700円

227万2700円

法人の税引前純利益

1989万6240円

1389万6240円

789万6240円

189万6240円

法人税等

633万7700円

412万9500円

193万3800円

49万4300円

法人の純利益

1355万8540円

976万6740円

596万2440円

140万1940円

 

 

 

 

 

役員報酬(年間)…a

1200万円

1800万円

2400万円

3000万円

健康保険料(弁護士国保)…b

66万2400円

66万2400円

66万2400円

66万2400円

年金保険料(個人負担分)…c

71万3700円

71万3700円

71万3700円

71万3700円

給与所得控除

-195万円

-195万円

-195万円

-195万円

基礎控除

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

配偶者控除

-38万円

-38万円

-38万円

-38万円

役員の所得

781万3900円

1381万3900円

1981万3900円

2581万3900円

所得税…d

118万5000円

308万6000円

523万7000円

768万7000円

住民税…e

78万5000円

138万5000円

198万5000円

258万5000円

役員の手取り額(a-b-c-d-e)

865万3900円

1215万2900円

1540万1900円

1835万1900円

 

 

 

 

 

法人の純利益+役員の手取り額

2221万2440円

2191万9640円

2136万4340円

1975万3840円

 

B.個人事業

個人事業の売上高(年間)…a

5000万円

必要経費(年間)…b

1500万円

個人事業税…c

160万5000円

消費税(売上高÷1.1*0.05)…d

227万2700円

健康保険料(弁護士国保)…e

66万2400円

国民年金保険料…f

19万8240円

基礎控除

-48万円

配偶者控除

-38万円

青色申告特別控除

-65万円

所得

2875万1660円

所得税…g

888万7000円

住民税…h

287万9000円

個人事業主の手取り額(a-b-c-d-e-f-g-h)

1849万5660円

 

 以上の計算でも、「A.法人の純利益+役員の手取り額」は「B.個人事業主の手取り額」を常に上回りました

 なお、その差は役員報酬が月額100万円の場合で最も大きく(約372万円)、月額250万円の場合で最も小さくなりました(約126万円)。単に課税上のメリットについて言えば、役員報酬は月額100万円前後に設定するのがよいと言えるのかもしれません*3

 

売上高2000万円の場合

 最後に、売上高が少ない場合はどうなるかを見てみましょう。

 

A.弁護士法人

 

月額70万円

月額100万円

法人の売上高(年間)

2000万円

2000万円

役員報酬(年間)

840万円

1200万円

年金保険料(事業主負担分)

71万3700円

71万3700円

法人会員の弁護士会費

11万7360円

11万7360円

上記以外の必要経費(年間)

600万円

600万円

消費税(売上高÷1.1*0.05)

90万9000円

90万9000円

法人の税引前純利益

385万9940円

25万9940円

法人税等

93万3800円

12万7700円

法人の純利益

292万6140円

13万2240円

 

 

 

役員報酬(年間)…a

840万円

1200万円

健康保険料(弁護士国保)…b

66万2400円

66万2400円

年金保険料(個人負担分)…c

71万3700円

71万3700円

給与所得控除

-194万円

-195万円

基礎控除

-48万円

-48万円

配偶者控除

-38万円

-38万円

役員の所得

470万3900円

781万3900円

所得税…d

52万4000円

118万5000円

住民税…e

47万4000円

78万5000円

役員の手取り額(a-b-c-d-e)

602万5900円

865万3900円

 

 

 

法人の純利益+役員の手取り額

895万2040円

878万6140円

 

B.個人事業

個人事業の売上高(年間)…a

2000万円

必要経費(年間)…b

600万円

個人事業税…c

55万5000円

消費税(売上高÷1.1*0.05)…d

90万9000円

健康保険料(弁護士国保)…e

66万2400円

国民年金保険料…f

19万8240円

基礎控除

-48万円

配偶者控除

-38万円

青色申告特別控除

-65万円

所得

1016万5360円

所得税…g

185万6000円

住民税…h

102万0000円

個人事業主の手取り額(a-b-c-d-e-f-g-h)

879万9360円

 

 この場合にも、役員報酬の月額によっては「A.法人の純利益+役員の手取り額」が「B.個人事業主の手取り額」を上回ることがわかります。また、年金積立額まで考慮するのであれば、常にメリットが生じるとも言えそうです。

 よって、概ね売上高2000万円を境に法人設立による課税上のメリットが生じる(裏を返せば、売上高2000万円を将来にわたって下回ることがないと予想されるのであれば、すぐにでも法人成りしたほうがよい!と言って差し支えなさそうです。

 

まとめ

 今回の記事では、弁護士法人を設立することによる課税上のメリットについて説明しました。

 なぜかこれまで、「弁護士法人は節税にはならない」という話が通説としてまかり通っていたように思われます。しかし、自分の手と頭で計算してみることにより、そのような言説が疑わしいことがわかるかと思います。

 仮に年間の節税額が100万円だとして、この先弁護士業を30年間続けるならば、節税の総額は3000万円にもなります。そして、売上高や役員報酬の金額によっては、節税額は更に大きなものとなります。

 そのため、こう言っては大げさかもしれませんが、私は、弁護士法人は弁護士のマネープランの切り札だと思っています。

 本記事が、皆さんが弁護士法人の価値を再考するきっかけとなれば幸いです。

 

 

*1:当時は、インボイス制度がなかったため、一定の条件はあるものの、法人を設立することによって消費税の納付を最大2年間免れることができました。

*2:

No.2260 所得税の税率|国税庁

*3:その理由は、やはり所得税の税率が課税所得900万円を境に大きく上がるからだと思われます。

弁護士の就職は、労働契約(給与所得)と業務委託契約(事業所得)のどちらが得か?

はじめに

 弁護士が法律事務所に就職する場合、その待遇は大きく分けて労働契約(給与所得)の形態業務委託契約(事業所得)の形態があります*1。そして、どちらの契約形態を取るかによって、勤務弁護士の手取りやその他の待遇には多かれ少なかれ差異が生じると理解されてきました。

 ところが、私の知る限り、これまで具体的な金額等を示した上で両契約形態の差異を検討した記事、書籍等は存在しなかったと思います。

 そこで、本記事では、一年目の弁護士の月給(報酬)額として採用されることの多い月額30万円~50万円の幅で、両契約形態の差異を検討してみました。なお、かかる計算は種々の前提条件によって変動しますが、本記事では以下の前提条件に基づいて計算を行いました。

 

  • 弁護士会費は、いずれの場合でも事務所が負担しているものとする。
  • 労働契約の場合、勤務弁護士は被用者保険(全国健康保険協会)、厚生年金保険及び雇用保険に加入しているものとする。これに対し、業務委託契約の場合、勤務弁護士は東京都弁護士国民健康保険組合と国民年金(基礎年金)に加入しているものとする。
  • 勤務弁護士の年齢は30歳未満であり、配偶者は無し、被扶養者もいないものとする。
  • 必要経費の多寡は勘案しないこととした。なぜなら、労働契約(給与所得)の場合であっても、勤務弁護士は同時に個人事業主という側面を持つため、通常の給与所得者とは異なり、(事業所得の計算において)必要経費を計上することが可能だからである*2。そのため、「業務委託契約(事業所得)は必要経費を自由に計上できるから節税に有利」という言説は成り立たない。
  • 勤務弁護士は、適格請求書(インボイス)発行事業者であり、消費税を負担するものとする。なお、令和8年までは、いわゆる「2割特例」の適用を受けるものとする。
  • 労働契約について、時間外手当や休日手当は勘案しないこととした。
  • なお、稀に契約形態は業務委託であるが、支給は給与所得という事務所*3も存在する。しかし、そのような形態は本記事の対象とはしない(すなわち、労働契約の場合は給与所得、業務委託契約の場合は事業所得であることを前提に検討を進める。)。

 

結論を先出し

 さて、先に結論を述べておくと、少なくとも経済的な観点で見る限り、月給(報酬)額が同じであるならば、労働契約(給与所得)のほうが得といえます。

 ポイントは以下のとおりです。

Point!

  1. 労働契約(給与所得)には、給与所得控除があるため、課される所得税・住民税が低くなる(なお、個人事件を扱う場合は、給与所得控除と同時に、事業所得について青色申告特別控除を併用することができる。)。
  2. 業務委託契約(事業所得)には、消費税と個人事業税が課されるため、労働契約(給与所得)と比べて支払う税金の総額が高くなる。
  3. 労働契約(給与所得)の場合、厚生年金保険料は労使折半となる。つまり、半分の自己負担額で老後の資産形成をすることができる
  4. 労働契約(給与所得)の場合、産前産後休業、育児休業、失業保険、労災保険といった法定福利厚生制度を利用することができる。

 

契約形態ごとの手取り額を計算

 では、両契約形態において、具体的な手取り額はどのように変化するのでしょうか?

 まずは、業務委託契約(事業所得)の場合を以下に示します。

 

A.業務委託契約

 

月額30万円

月額35万円

月額40万円

月額45万円

月額50万円

年収

360万円

420万円

480万円

540万円

600万円

所得

192万0160円

252万0160円

312万0160円

372万0160円

432万0160円

基礎控除

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

青色申告控除

-65万円

-65万円

-65万円

-65万円

-65万円

健康保険料

35万1600円

35万1600円

35万1600円

35万1600円

35万1600円

年金保険料

19万8240円

19万8240円

19万8240円

19万8240円

19万8240円

所得税

9万8000円

15万8000円

21万9000円

32万3000円

44万6000円

住民税

20万2000円

26万2000円

32万2000円

38万2000円

44万2000円

消費税

7万2000円

8万4000円

9万6000円

10万8000円

12万0000円

※令和9年以降

(18万0000円)

(21万0000円)

(24万0000円)

(27万0000円)

(30万0000円)

個人事業税

3万5000円

6万5000円

9万5000円

12万5000円

15万5000円

手取り額

264万3160円

308万1160円

351万8160円

391万2160円

428万7160円

 

 

 これに対し、労働契約(給与所得)の場合は以下のようになります。

 

B.労働契約

 

月額30万円

月額35万円

月額40万円

月額45万円

月額50万円

年収

360万円

420万円

480万円

540万円

600万円

所得

143万1341円

180万6329円

219万8219円

262万3912円

299万8900円

基礎控除

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

給与所得控除

-116万円

-128万円

-140万円

-152万円

-164万円

健康保険料

17万7659円

21万3191円

24万2801円

26万0568円

29万6100円

年金保険料

32万9400円

39万5280円

45万0180円

48万3120円

54万9000円

雇用保険料

2万1600円

2万5200円

2万8800円

3万2400円

3万6000円

所得税

7万1000円

9万0300円

12万2300円

16万4800円

20万2300円

住民税

15万3000円

19万0600円

22万9800円

27万2300円

30万9800円

手取り額

284万6741円

328万5429円

372万6119円

418万6812円

460万6800円

 

 

 そして、上記の計算結果を基に、両者の差異を示しました。

 

◎両者の差異

 

月額30万円

月額35万円

月額40万円

月額45万円

月額50万円

B-A

20万3581円

20万4269円

20万7959円

27万4652円

31万9640円

B-A

※令和9年以降

31万1581円

33万0269円

35万1959円

43万6652円

49万9640円

B-A

※令和9年以降

※年金積立額を考慮

77万2141円

※うち年金積立差額:46万0560円

92万2589円

※うち年金積立差額:59万2320円

105万4079円

※うち年金積立差額:70万2120円

120万4652円

※うち年金積立差額:76万8000円

139万9400円

※うち年金積立差額:89万9760円

 

 月額40万円の例で示すと、「労働契約の手取額(B)」-「業務委託契約の手取り額(A)」は20万7959円となりました。

 もっとも、上記の差額は、適格請求書(インボイス)発行事業者に「2割特例」が適用される令和8年までのものです。そして、令和9年以降、消費税の負担額が上がる結果、上記の差額は35万1959円となります。

 さらに、上記の差額は、年金積立額の差異を考慮に入れたものではありません。すなわち、業務委託契約の場合、年金は国民年金(基礎年金)しか積み立てていないのに対し、労働契約の場合、厚生年金保険料(従業員負担分)としてより多くの金額を積み立てていると同時に、事業主(法律事務所)も同額の厚生年金保険料(事業主負担分)を積み立ててくれています。そして、その差額は、月額40万円の月給(報酬)額の例で70万2120円にもなります*4

 

 

個人事件所得がある場合には更に差額が拡大

 加えて、勤務弁護士に個人事件所得がある場合には、更に手取りの差額が拡大します。なぜなら、労働契約(給与所得)の場合には、給与所得控除と青色申告特別控除を併用することができるのに対し、業務委託契約(事業所得)の場合には青色申告特別控除しか利用することができないからです。

 仮に、勤務弁護士に個人事件所得200万円があるとして、以下の計算を行いました。

 

A.業務委託契約(+個人事件所得200万円)

 

月額30万円

月額35万円

月額40万円

月額45万円

月額50万円

年収

560万円

620万円

680万円

740万円

800万円

所得

392万0160円

452万0160円

512万0160円

572万0160円

632万0160円

基礎控除

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

青色申告控除

-65万円

-65万円

-65万円

-65万円

-65万円

健康保険料

35万1600円

35万1600円

35万1600円

35万1600円

35万1600円

年金保険料

19万8240円

19万8240円

19万8240円

19万8240円

19万8240円

所得税

36万4000円

48万7000円

60万9000円

73万2000円

85万4000円

住民税

40万2000円

46万2000円

52万2000円

58万2000円

64万2000円

消費税

11万2000円

12万4000円

13万6000円

14万8000円

16万0000円

※令和9年以降

(28万0000円)

(31万0000円)

(34万0000円)

(37万0000円)

(40万0000円)

個人事業税

13万5000円

16万5000円

19万5000円

22万5000円

25万5000円

手取り額

403万7160円

441万2160円

478万8160円

516万3160円

553万9160円

 

B.労働契約(+個人事件所得200万円)

 

月額30万円

月額35万円

月額40万円

月額45万円

月額50万円

年収

560万円

620万円

680万円

740万円

800万円

所得

278万1341円

315万6329円

354万8219円

397万3912円

434万8900円

基礎控除

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

-48万円

給与所得控除

-116万円

-128万円

-140万円

-152万円

-164万円

青色申告控除

-65万円

-65万円

-65万円

-65万円

-65万円

健康保険料

17万7659円

21万3191円

24万2801円

26万0568円

29万6100円

年金保険料

32万9400円

39万5280円

45万0180円

48万3120円

54万9000円

雇用保険料

2万1600円

2万5200円

2万8800円

3万2400円

3万6000円

所得税

18万4000円

22万3000円

28万8000円

37万5000円

45万2000円

住民税

28万8000円

32万6000円

36万5000円

40万7000円

44万5000円

消費税

4万0000円

4万0000円

4万0000円

4万0000円

4万0000円

※令和9年以降

(10万0000円)

(10万0000円)

(10万0000円)

(10万0000円)

(10万0000円)

個人事業税

0円

0円

0円

0円

0円

手取り額

455万9341円

497万7329円

538万5219円

580万1912円

618万1900円

 

◎両者の差異

 

月額30万円

月額35万円

月額40万円

月額45万円

月額50万円

B-A

52万2181円

56万5169円

59万7059円

63万8752円

64万2740円

B-A

※令和9年以降

63万0181円

69万1169円

74万1059円

80万0752円

82万2740円

B-A

※令和9年以降

※年金積立額を考慮

109万0741円

※うち年金積立差額:46万0560円

128万3489円

※うち年金積立差額:59万2320円

144万3179円

※うち年金積立差額:70万2120円

156万8752円

※うち年金積立差額:76万8000円

172万2500円

※うち年金積立差額:89万9760円

 

 月額40万円の例で見ると、手取りの差額は年間で約60万円(ひと月あたり約5万円)、年金積立額まで考慮した場合には年間で約144万円(ひと月あたり約12万円)の差が生じる結果となりました。

 

まとめ

 就職活動の段階では、額面の給与(報酬)金額を見て何となく就職先事務所を決める方が多いのかもしれません。

 しかし、社会に出て実感するのは、経済的な豊かさというのは額面の給与(報酬)金額では決して決まらないということです。すなわち、本記事に述べた税金・社会保険や、金融投資、社会制度の活用、さらには私生活の安定といった様々な要素を統合したマネープランを組み立てることによって、初めて経済的な豊かさを得ることができます。

 就職は、皆さんがそのような経済的な豊かさを実現するための第一歩です。皆さんが事務所側の事情に翻弄されることなく、各々最適な就職先を見つけられることを切に願っています。

 

 

*1:厳密に言えば、独立採算のパートナー(「ノキ弁」ともいいます。)として事務所に所属する形態も存在します。しかし、かかる形態は、本記事で比較の対象とするものではありませんので、詳しい説明は割愛します。

*2:そして、仮に事業所得が赤字(損失)の場合には、損益通算によって給与所得を減らすことができる。

*3:「業務委託」のため、健康保険、厚生年金等の法定福利厚生はない。

*4:公的年金に対する信頼は人それぞれだとは思いますが、ひとまず本記事では、納めた年金保険料の1/1が将来返ってくる(納めた年金保険料の1/1が資産である)ことを前提に論じています。

20代のお金の知恵/21歳、国民年金の損得勘定に異議あり | コラム | 大和証券

勤務弁護士の成長に対する支援(「ボス弁」論「第3 育成論」)

全体目次

第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~
1 「ボス弁」という仕事
2 勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である
3 他者は変わらない

第2 採用論
1 成人発達理論に基づく採用基準の策定
2 採用基準の具体例

第3 育成論
1 基本的な心掛け
2 勤務弁護士の成長に対する支援

 

⑴ 初期教育の重要性

 以上のように勤務弁護士のやる気を削がないような心掛けをした上で、彼らに対して適切な支援をしていくことになる。その際にまず重要となるのは、入所後すぐに行う初期教育である。

 これはなぜかというと、弁護士としての職業生活をスタートした直後の時期は、先入観がなく、教えたことを素直に守ってくれる可能性が高いからである。そのため、「ボス弁」として最低限教えたいことがあるのであれば、この時期を逃さずに教えるべきである。

 

 

 また、裏を返せば、この初期教育の時期を除いて、「ボス弁」は勤務弁護士に対してできるだけ「教育」や「指導」はしないほうがよい。なぜなら、「教育」や「指導」は多かれ少なかれ勤務弁護士のやる気を削ぐことに繋がるからである。

 

⑵ OJTを効果的に行う方法

ア 徒弟制において取られてきた3つの手法

 さて、次にOJT(On-the-Job Training)において「ボス弁」がどのような行動をするかについて検討していきたい。

 これには色々な考えがあり得ると思うが、私は学習科学の見地に基づいて、徒弟制において伝統的に取られてきた次の3つの方法を採用している。それは「足場かけ」、「コーチング」、「モデリング」である[1]

イ 足場かけ

 まず、足場かけとは、弟子たちが自分たちで行うべきことを失敗せずに行えるように、師匠が提供する手助けや道具を指す。

 弁護士の育成において、この足場かけの一つが書面のひな形(サンプル)の提供である。つまり、勤務弁護士に訴状や準備書面その他の書面を作成させる際に、参考となる過去の書面を提供してあげることである。これによって、勤務弁護士は一から書面の構成を考えずに済むので、経験が浅くとも一定のアウトプットを出せるようになる。

 ところで、このひな形(サンプル)の提供は決して楽な作業ではない。なぜなら、それを可能とするためには、ボス弁自身が当該事案の構造を理解するとともに、過去の書面の中から適切なサンプルを引き出してこなければならないからである。

ウ コーチング(1on1ミーティング)

 次に、コーチングとは、弟子が自分で試行錯誤しているときに、師匠が適宜どのようにしたらよいのか、何に気をつけるべきかを教えてあげることを指す。このコーチングを行う仕組みとして、私は一日一回の1on1ミーティングを行っている。

 弊所の場合、1on1ミーティングは原則として午前中に行うこととしている。時間は5~10分を目安としているが、話題が多いときは全てが解決するまで何分でも続ける。肝心なのは、ボス弁が喋るのではなく、勤務弁護士に多く喋らせることである。そこで、私は大抵「どうでしょうか?」といった簡易な質問を投げかけ、あとは勤務弁護士に話したい話題を話してもらっている。なお、話題のほとんどは具体的な事件の相談や確認である。

 1on1ミーティングの効用として私が実感しているのは、コミュニケーションの量・質の向上である。

 つまり、1on1ミーティングを実施しない場合、ボス弁と勤務弁護士とのコミュニケーション量は偶然に左右される。そして、仮に勤務弁護士が控えめな人であった場合、ボス弁とのコミュニケーション量は少なくなってしまいがちである。これに対し、毎日欠かさず1on1ミーティングを行うようにすると、ボス弁と勤務弁護士とのコミュニケーションを仕組みによって確保することができる。

 また、勤務弁護士の話を聴く時間を設けることによって、コミュニケーションの質が向上する。深いコミュニケーションの態様として「対話」というものがあるが、対話において最も重要なのはまず相手の話を聴くことである[2]。そのため、1on1ミーティングを通じてボス弁が勤務弁護士の話を聴くことは、両者の間に対話を成立させることになる。そして、ひとたび対話が成立すると、勤務弁護士はボス弁の言うことも聴いてくれるようになる。

エ モデリング

 最後に、モデリングとは、師匠が弟子に対し「どうすればよいのかを見せてあげること」を指す。これによって弟子は、どうならなくてはいけないか(学びの目標)とそのために何をするのか(必要となる知識や技能)を全体として把握することができるとされている。

 モデリングにおいて重要なのは、近すぎず遠すぎない程よい距離感であると考える。すなわち、ボス弁と勤務弁護士の部屋が別室であるなど距離が遠すぎると、勤務弁護士はボス弁がどのように仕事をしているのかを見ることができないため、モデリングが成立しない。これに対して、距離が近ければいいというものでもない。なぜなら、モデリングには学び手側の内省が欠かせないが、ボス弁との距離が近すぎると勤務弁護士はプレッシャーを感じて内省を深めることができないからである。

 これは書面への添削を通じてモデリングを行う際にも妥当する。勤務弁護士の作成した書面に対して、ボス弁がいわゆる「朱入れ」をすることは重要である。しかし、その際に教えようとし過ぎるとしばしば逆効果になることがある。勤務弁護士が萎縮してしまうのである。そのため、ボス弁としては、「朱入れ」をしつつ、勤務弁護士にそれを読んでもらい、質問があれば答えるという程度にとどめたほうが良いこともある。

 

 

[1] 大島純ほか『主体的・対話的で深い学びに導く 学習科学ガイドブック』(北大路書房

[2] 泉谷閑示『あなたの人生が変わる対話術』(講談社+α文庫)

基本的な心掛け(「ボス弁」論「第3 育成論」)

全体目次

第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~
1 「ボス弁」という仕事
2 勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である
3 他者は変わらない

第2 採用論
1 成人発達理論に基づく採用基準の策定
2 採用基準の具体例

第3 育成論
1 基本的な心掛け
2 勤務弁護士の成長に対する支援

 

⑴ 勤務弁護士のやる気を削がないことが最も重要である

 さて、次に育成論について話を進めていこうと思う。

 といっても、採用に成功し、段階4(自己主導段階)以上の人を採用することができていれば、実は育成に関してはさほどやることはない。なぜなら、段階4(自己主導段階)以上の人材とは自律的に行動ができる人のことであり、極端な話、放っておいたとしても成長していく[1]からである(ただし、丸投げの体制に嫌気が差して辞めていくかもしれないが。)。

 そこで、段階4(自己主導段階)以上の人材に対する育成においては、やる気を削がないことが最も重要であり、それに付随していくつかの支援をすることになる。

 

⑵ 自分の新人時代と比較することに何ら意味はない

ア 「ボス弁」に成りたての人がやってしまいがちなこと

 この点、「ボス弁」に成りたての人がやってしまいがちなのは、勤務弁護士の一挙手一投足をチェックして、自分の新人時代と比較してしまう(そして時に叱る)ことである。これは私も散々やってしまったし、今でもやってしまうことがある(叱ることはないが)。

 しかし、言うまでもないが、そうした行動は勤務弁護士のやる気を大きく削ぐことになる。

イ 前提条件が異なる

 そもそも、勤務弁護士の仕事ぶりを自分の新人時代と比較することは、論理的に見ても妥当ではないといえる。なぜなら、自分の新人時代と今とでは業界の置かれた状況が異なるし、仕事の仕方自体も変わってきている。また、自分が新人時代に扱っていた事件と自分が現在勤務弁護士に扱わせている事件とでは、その性質(分野、単価、難易度、解決までの所要期間、事務職員や関係者の支援の有無等)が多かれ少なかれ異なるはずである。

 このように前提条件が異なるため、勤務弁護士の仕事ぶりを自分の新人時代と比較することはおよそ不可能なのである。

ウ 結局「マウンティング」以上の意味はない

 それにもかかわらず、勤務弁護士の仕事ぶりを自分の新人時代と比較してしまうのは、自分が人より優秀であると思いたい「エゴ」の作用にほかならない。すなわち、勤務弁護士に対して「マウンティング」をすることによって、自分のエゴを守ろうとしているのである。

 勤務弁護士の成長や事務所の利益よりも自分のエゴを守ることが重要なのであればそれでもよいだろう。しかし、もしそうでないのなら、ボス弁は自らのエゴを直視し、マネジメントできなければならない。

 

⑶ 「自分でやったほうが早い」は実は遅い

 また、「ボス弁」に成りたての人にありがちなのは、勤務弁護士の仕事が非効率だったり訂正が多いのを見て、「自分でやったほうが早い」と考えて仕事を抱えてしまうことである。ところが、このようなことを繰り返していると、勤務弁護士はボス弁に任せたほうが早いし楽だと考え、成長意欲を失ってしまうことになる。

 それに加えて、一人の弁護士が抱えることのできる仕事量は思った以上に少ないのである。それにもかかわらず、ボス弁がたくさんの仕事を抱えてしまっては、事務所全体の仕事に遅延が生じることは明らかである。

 そのため、仮に「自分でやったほうが早い」と思う仕事があったとしても、全体最適を考え、それを勤務弁護士に任せる態度こそが「ボス弁」の取るべき態度ではないかと思う。

 

 

[1] これを学習科学の分野では「自己調整学習」という。

採用基準の具体例(「ボス弁」論「第2 採用論」)

全体目次

第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~
1 「ボス弁」という仕事
2 勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である
3 他者は変わらない

第2 採用論
1 成人発達理論に基づく採用基準の策定
2 採用基準の具体例

第3 育成論
1 基本的な心掛け
2 勤務弁護士の成長に対する支援

 

 上記を前提として、如何にして段階4(自己主導段階)以上の人を選考するか。

 完全な採用基準は永遠に未完であるが、少なくとも現時点で私は次のように考えている。

 

⑴ その人の半生をインタビューする

 まず、成人発達理論では、各発達段階に対応する意識構造を判定するためには、その人が「どういう言葉をどんなふうに使っているか」に着目することが重要とされている。そして、それを判定するためには、採用面接において事前対策が難しい話をしてもらうことが有効である。その一環として、私は、候補者に対し、その人の半生をインタビューすることにしている。

 具体的には、

・これまでに何かに没頭した経験があるか

・大学時代、法律の勉強以外に何をしていたか

・どんな子どもだったか

・親友と呼べる人はいるか

・恩師と呼べる人はいるか

・いつ、どんなきっかけで弁護士を志したのか

などを、その人自身の言葉で語ってもらうことにしている。

 その上で、次に述べる着眼点でその人の意識構造(段階4に達しているか否か)を見るように心掛けている。

 

⑵ 着眼点

ア 言葉の選び方

 まず見るべきはその人の言葉の選び方である。特に、語彙の豊富さ言語化能力を通じて発達段階に影響するとされている。

 また、いわゆる「借り物の言葉」を多用する人は段階3(他者依存段階)以下であることが推認される。これに対し、仮に訥弁であったとしても、伝えたいことを自分の言葉で表現しようとする人は段階4(自己主導段階)の特徴を備えていると考えられる。

 加えて、「事実」を中心に話をすることができる人も、内省が深いという意味で段階4(自己主導段階)以上である可能性が高いと考える。

イ 話の構造

 次にその人がどのような構造で話をしているかを見る。

 例えば、「いつ、どんなきっかけで弁護士を志したのか」と質問したときに、「中学生の時」(いつ)、「ドラマを観て」(きっかけ)という答えが返ってきたとする。もちろんその回答自体は問題ない。しかし、私が聞きたい部分はそこではないので、次のような質問を続けてするようにしている。

 

・どうして弁護士の仕事に魅力を感じたんですか

・あなたはその当時どんな学生でしたか

・どのような弁護士になろうと思いましたか

・弁護士を志してからあなたの行動にどのような変化がありましたか

 

 つまり、候補者が弁護士を志したことを、自分の半生の中でどのように意味づけているかこそが重要ということである。そのような問いに対して、不完全ながらも真正面から答えようとする人は段階4(自己主導段階)以上である可能性が高いと考える。なぜなら、意味を構築する能力は段階4(自己主導段階)の特徴の一つだからである。

 また、他者とのエピソードが出てくるかも重要である。つまり、どのような人生経験であれ、人が自分一人の力で成し遂げるものなど一つもない。そのため、例えば司法試験合格といった成功体験の理由を尋ねたときに、「友人のこんなアドバイスを聞いて勉強法を変えた」とか「恩師から厳しい指摘をされて目が覚めた」などの他者とのエピソードがないかを聞くようにしている。そのような他者の貢献を的確に認識できる人は、自分を俯瞰して見ることができており、段階4(自己主導段階)を超えて段階5(自己変容段階)の特徴を備えているといえる。

成人発達理論に基づく採用基準の策定(「ボス弁」論「第2 採用論」)

全体目次

第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~
1 「ボス弁」という仕事
2 勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である
3 他者は変わらない

第2 採用論
1 成人発達理論に基づく採用基準の策定
2 採用基準の具体例

第3 育成論
1 基本的な心掛け
2 勤務弁護士の成長に対する支援

 

⑴ 成人発達理論とは

 さて、ここからは具体的な採用論に入っていこう。

 先に「他者は変わらない」のだとすれば、あなたの雇用する相手は最初からあなたの条件とする「基準」を満たした人でなければならないと述べた。ここでいう採用基準を如何にして構築するかが採用論の肝である。

 優秀な弁護士を雇用するための採用基準とはどのようなものであろうか。

 真っ先に思い浮かぶのは、「司法試験に上位で合格していること」や「若くして(飛び級で)司法試験に合格していること」、「入試偏差値の高い大学を卒業していること」などかもしれない。しかし、そのような人は、有名事務所に就職したり、裁判官や検察官になることが多いため、私のような若年の弁護士が経営する零細事務所には入ってこない。

 そのため、弊所のような事務所が優秀な弁護士を採用するためには、上記のような(万人受けする)基準とは異なる採用基準を打ち立てる必要がある。その基礎となる理論(仮説)が「成人発達理論」である。

 

 「成人発達理論」とは、(乱暴に要約するならば)人の意識は成人してからも発達を続け、一定の「発達段階」を登っていくという理論のことである。

 そして、論者によって定義は異なるものの、同理論によれば人には概ね次の「発達段階」が存在するとされている。

 

発達段階

特徴と限界

段階1

(具体的思考段階)

特徴:具体的な事物を頭に思い浮かべて思考することができる。

限界:形のない抽象的な概念を扱うことができない。

段階2

道具主義的段階)

特徴:自分と他者とを区別した二元的な思考をすることができる。

限界:自分の関心事項や欲求を満たすことに焦点が当てられており、他者の感情や思考を理解することが困難。

段階3

(他者依存段階)

特徴:相手の立場に立って物事を考えることができる。

限界:自分の意思決定基準を持っておらず、他者(組織や社会を含む)の基準によって自分の行動を規定する。

段階4

(自己主導段階)

特徴:自分なりの価値体系や意思決定基準を構築することができるようになり、自律的に行動ができる。

限界:自分独自の価値観と同一化しているがゆえに、異なる価値観に基づいた考えや意見を持った他者を許容できない。

段階5

(自己変容段階)

特徴:自分の価値観に横たわる前提条件を考察し、深い内省を行いながら、既存の価値観や認識の枠組みを壊し(脱構築)、新しい自己を作り上げていくことができる。また、他者の成長を支援することによって自分も成長するという認識(相互発達)があり、他者と価値観や意見を共有し合いながら、コミュニケーションを図ることができる。

限界:その時点における未知。

※加藤洋平『組織も人も変わることができる! なぜ部下とうまくいかないのか「自他変革」の発達心理学』(日本能率協会マネジメントセンター)より

 

⑵ プロフェッショナルの仕事は段階4(自己主導段階)以上が前提

 さて、成人発達理論においては、主体的・自律的な行動が求められるプロフェッショナルの仕事には、段階4の特性が強く求められるとされている。この点は少し重要なので、以下に引用する。

 

私  どういう理由からかと言うと、そうしたプロフェッショナルな仕事に就く人たちには、自律的な行動が求められるのは当然ですが、持論のようなものを形成できる力が必要だと思うのです。確かに、どんな業界にも固有のベストプラクティスが存在していて、それを習得することはプロフェッショナルにとって不可欠だと思います。つまり、最低限の知識や理論を獲得するのはプロフェッショナルとして当然のことだということです。ですが、真の意味でのプロフェッショナルは、そうしたベストプラクティスを超えて、自らの経験をもとに自分なりの考えや理論を生み出すことができると思うのです。

室積 まさにその通りですね。プロフェッショナルと呼べるのか定かではありませんが、段階3のプロフェッショナルは、業界固有のベストプラクティスに盲目的なところがあります。要するに、彼らは業界で浸透している考え方や理論に従順であり、そこに自分なりの知見を加えるということができないのです。その結果として、クライアントは多様性に溢れているのに、画一的なアプローチしかできないということに陥りがちです。それに対して、段階4のプロフェッショナルは、業界固有の考え方や理論を客観的に眺めることができ、さらに自らの経験や考え方と照らし合わせて、独自の持論を構築することができるようになってきます。その結果、業界固有の決まりきったアプローチを鵜呑みにするのではなく、クライアントの特性に応じたアプローチを採用することができるようになってくると思います。

 

※加藤洋平『組織も人も変わることができる! なぜ部下とうまくいかないのか「自他変革」の発達心理学』(日本能率協会マネジメントセンター)より

 

 

 私の経験に照らしても、かかる指摘は真実だと考える。すなわち、段階3(他者依存段階)の人は、前例を欠く事例に直面すると思考停止に陥ってしまう。しかし、弁護士の扱う事件には多かれ少なかれ固有性があり、その意味では全ての事件に前例はないのである。だからこそ、弁護士には、論理と論理を結び付けて自己の主張を構築する思考力(言うまでもなく、これは段階4(自己主導段階)の特徴である。)が求められる。

 また、段階3(他者依存段階)の人は権威に弱い。そのため、裁判官や目上の弁護士から何かを言われると、それを鵜呑みにしてしまうことがしばしばある。しかし、弁護士であれば、相手の言うことが論理的に真であるか否かや自分の依頼者にとって利益であるか否かを分析し、場合に応じて適切な反論(これを「弁護」というのではなかろうか。)をしなければならない。ところが、段階3(他者依存段階)の人にとってこれを理解することは難しく、そのような人にはいわゆる「相場」での解決しかできない。

 したがって、弁護士を雇用する場合には、段階4(自己主導段階)以上の人を採用するように注意しなければならない。

 

⑶ 採用の失敗を育成で取り戻すことは極めて難しい

 もちろん人は成長する。だとすれば、ひとまず段階2(道具主義的段階)や段階3(他者依存段階)の人を採用した上で、その人を段階4(自己主導段階)に育成していけばよいのではないか?

 そのような疑問に対する私の回答は否である。

 なぜなら、成人発達理論によれば、発達段階を1つ登るためには少なくとも数年間を要するとされているからである。しかも、人の発達をその人自身や周囲の他者が無理やり促進することはできないとされており、発達はワインの熟成にも似たゆっくりとしたプロセスを経るとされている。

 以上を前提として、あなたは段階2や段階3の人を弁護士として採用することができるだろうか?その人が段階4(自己主導段階)に達するまでの数年間(場合によっては十数年間)、毎年600万円以上の費用を負担しながら。

他者は変わらない(「ボス弁」論「第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~」)

全体目次

第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~
1 「ボス弁」という仕事
2 勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である
3 他者は変わらない

第2 採用論
1 成人発達理論に基づく採用基準の策定
2 採用基準の具体例

第3 育成論
1 基本的な心掛け
2 勤務弁護士の成長に対する支援

 

⑴ 「期待」をコントロールする

 さて、指導しては元通りにという繰り返しの末に、私は一つの信念に行き着いた。それは、他者は変わらないということである。

 他者は変わらないということの含意については、次項で詳しく述べたいと思う。ここで述べておきたいのは、仮に他者が変わらないとすれば、私たちはどうすればよいのかということである。

 先に、「怒り」という感情は「期待」と「現実」のギャップであると述べた。そして、他者(=「現実」)は、(少なくとも自分の思い通りには)変わらないのである。だとすれば、「怒り」を上手くマネジメントする術は、「現実」ではなく「期待」をコントロールするほかにはないのである。

 つまり、私たちが苦しくなるのは、「一生懸命伝えれば(指導すれば)人(他者)は変わってくれるはずである」という期待を持つからにほかならない。しかし、少なくとも私の経験上、かかる期待は幻想に過ぎないのである[1]

 

 私が本稿において述べる「ボス弁」論の核心は、この「人(他者)は変わってくれるはずである」という期待を「人(他者)は変わらない」という信念に転換させることにある。そして、「他者は変わらない」ことを前提として他者とどのように付き合っていくかということが、後述する「採用論」、「育成論」につながってくる。

 

⑵ 「他者は変わらない」ことの含意

 さて、ここで「他者は変わらない」ことの含意について整理しておこう。

 私の考える含意とは、「基準に満たない人を採用しない」「人は最善を選択している」、「人にできるのは成長しようとする他者を支援することだけ」という3点である。

 

ア 含意①:基準に満たない人を採用しない

 第1の含意は、「基準に満たない人を採用しない」ということである。そして、このことはビジネスのみならず人間関係全般における最重要事項であると考える。

 すなわち、仮に「他者は変わらない」のだとすれば、あなたが付き合うべき相手は最初からあなたの条件とする「基準」を満たした人でなければならない。なぜなら、その他者が事後に「基準」を満たしてくれる保証はないし、実際にそうはならないことが多いからである。

 ところで、夫婦関係においては、結婚前に覚えた違和感はそのままにしてはならないという趣旨の警句が言われることがある。大丈夫だろうと安易に結婚した結果、結婚後に価値観の溝がどんどん広がっていき、離婚に至ってしまう危険があるからである。

 雇用関係も同様だと思う。だからこそ、「ボス弁」は雇用前に採用基準を明確にし、その基準に満たない人を採用しないように注意しなければならない。

 

イ 含意②:人は最善を選択している

 第2の含意は、「人は最善を選択している」ということである。

 「人(他者)が変わらない」のは、決してその人に悪意があるからではない。むしろ、その局面において(あなたの期待どおりには)変わらないことがその人にとっての「最善」策であるからこそ、人は変わらないのである。

 このように考えれば、人を変えようとする行為が如何に無為であるかということに気付くと思う。なぜなら、誰に言われなくても人はその人にとっての「最善」を尽くしているのである。したがって、その人は(少なくともその局面においては)それ以上変わりようがないし、変わる必要もないのである。

 ただし、その人が新人であるような場合には、知識や技術、認識の範囲が不十分であるため、その人にとっての「最善」策が仕事一般における「最善」策と食い違うことが多々ある。しかし、そのような場合であっても、変わるべきはその人自身ではない。むしろ、(「育成論」において述べるとおり)そのときにこそ周囲の人の支援が必要となるのである。

 

ウ 含意③:人にできるのは成長しようとする他者を支援することだけ

 第3の含意は、「人にできるのは成長しようとする他者を支援することだけ」ということである。

 ここでいう「支援」とは、叱ることや「指導」のように、他者を変えようとすることではないということに注意が必要である。すなわち、「支援」とは、人は最善を選択しており、現状ではそれ以上のパフォーマンスを出せないことを前提とした上で、それを超えるパフォーマンスを発揮するための武器(知識や技術、認識の範囲)を提供する行為を指すのである。そして、ここで提供された武器(知識や技術、認識の範囲)を他者が自分のものにしたときにこそ、その人は「成長した」と呼べるのである。

 ただし、提供された武器を取り入れるかどうかは、その人の選択次第ということを忘れてはならない。したがって、支援を受け入れない部下に対して我々上司が腹を立てるのはそもそも見当違いなのである。

 

 

[1] もちろん、何らかの原因で他者が変わることは実際にたくさんある。しかし、私がここで言いたいのは、変わるかどうかは結局その人(他者)次第なのであり、「変わってくれるはずである」という期待を持つことは幻想(あるいは独善)に過ぎないということである。

勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である(「ボス弁」論「第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~」)

全体目次

第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~
1 「ボス弁」という仕事
2 勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である
3 他者は変わらない

第2 採用論
1 成人発達理論に基づく採用基準の策定
2 採用基準の具体例

第3 育成論
1 基本的な心掛け
2 勤務弁護士の成長に対する支援

 

⑴ 勤務弁護士の育成は難しい

 さて、前項では私の失敗談を記したのだが、ふと周りを見渡すと、当業界において同様の事例は数多く聞こえてくる。また、それらの事例の中には、(主に元勤務弁護士の側からの情報であるが)ボス弁からパワハラまがいの「指導」を受けたという話も散見される。

 かつての私であれば、そのような話を聞いたとき、「あり得ないな」(軽蔑)とか「あの先生にもそういう顔があるんだ」(野次馬心理)と思っていた。しかし、今はちょっと違う。

 もちろん、パワハラをはじめとするハラスメントを許すべきでないことは当然である。もっとも、少なくない数のボス弁が勤務弁護士に対して強く当たってしまう理由は、今はわかる気がする。それだけ勤務弁護士を雇用・育成することには難しい部分がある。

 

⑵ 勤務弁護士の雇用・育成が難しい理由

ア 勤務弁護士のパフォーマンスが事務所経営を左右する

 勤務弁護士の雇用・育成が難しい理由としては、いくつかの要因が考えられる。

 まず、弁護士が多数所属している事務所でもない限り、一人の勤務弁護士の発揮するパフォーマンスの高低はその事務所の経営を左右するほどの影響を持つことが挙げられる。

 つまり、勤務弁護士の給与水準は事務職員の倍以上であり、昨今の採用難[1]によってその給与水準は更に上昇傾向にある。これは事務所側から見ると、勤務弁護士の損益分岐点が高まるということであり、仮にこれを超えない場合にはいわゆる「赤字」状態[2]に陥ってしまう。そして、多くの法律事務所はいわば零細企業であるため、勤務弁護士の給与水準によって生じた「赤字」を補填することは容易なことではないのである。

 そのため、ボス弁としては勤務弁護士のパフォーマンスに無関心でいるわけにいかず、指導に熱が入ってしまいがちのように思われる。

イ 無意識の刷り込み

 また、勤務弁護士の雇用・育成が難しいもう一つの理由として、無意識の刷り込みがあるように思われる。

 私が弁護士登録後に就職した事務所のボスは司法修習39期であったが、その世代のボス弁にとって勤務弁護士を叱って指導することは常識と捉えられていたように思う。そのため、私の兄弁(事務所の先輩弁護士)達もかつてボスから厳しい指導を受けていたし、その指導によって成長した自分達を誇りに感じている風もあった。私は、そのような兄弁達を見ていたので、次第にボスから叱られることには抵抗がなくなっていった。

 同様の経験を持つ先生方も多いのではなかろうか[3]

 

 いずれにせよ、私を含め一定数の弁護士は、自分が「叱る指導」を受けて育ったから、何かあると勤務弁護士にもついつい「叱る指導」をしてしまいがちなのではないかと思う。

 

⑶ 「怒り」=「期待」と「現実」のギャップ

 私自身はというと、(あくまで自己評価であるが)勤務弁護士に対して「叱る指導」はあまりしなかったと思う。もっとも、本当は叱りたいのに叱れないことに不満を鬱積したり、時にはその不満が嫌味として漏れ出てしまっていたのだから、大声で勤務弁護士を叱りつけるボス弁と本質は何ら変わらなかったと思う。

 つまり、人が抱く「怒り」という感情は、内心の「期待」と「現実」との間にギャップがあるときに起こるのである。そして、私は勤務弁護士を叱ること自体は少なかったものの、勤務弁護士に一方的な期待をし、勤務弁護士がその期待に応えないことに対して「怒り」を抱いていた。そうした「怒り」の感情こそが、かつて私の抱えていた不満の正体であったと今になって思うのである。

 

⑷ 他者を変えようとする心理

 人が他者を叱るのは、前記の「期待」と「現実」のギャップがあり、怒りを抱くからではないかと思う。そして、そのようなギャップ(そして怒りの感情)に直面したとき、人は「現実」(他者)を「期待」に合わせようとして、他者を叱り、その行動を変えようとするのである。

 私自身、期待に応えない勤務弁護士に対して、「指導」をし、その行動を変えようと何度も試みてきた。そして、そのことは勤務弁護士のためであると思ってきた。

 しかし、結論から言うと、私の「指導」によってその人が成長することはなかった。いや、確かにその場限りの行動が変わることはあったが、少し時間が経つと元通りになるということを何度も繰り返してきた。

 そのような繰り返しは、その人にとってもそうだったであろうが、私にとっても多大な苦痛であった。

 

 そして、結論から言うと、この他者を変えようとする心理の正体は我々の「エゴ」ではないかと思う。そのため、「ボス弁」が勤務弁護士を育成するにあたっては、何よりも自分自身のエゴを見つめ、マネジメントすることができなくてはならない。

 

 

[1] 法曹志望者数の低迷もあり、新人弁護士の数はかつてよりも少なくなっている。これに対して、採用を予定している法律事務所数は増えているため、相対的に買い手市場が続いている。

[2] もちろん、「新人弁護士研修資料」に書いたとおり、「『勤務弁護士が事務所に在籍していることによる利益』とは、専ら客観的に算定できるものではなく、ある程度主観的なもの」である。

[3] 私は司法修習66期であるが、より古い弁護士の時代にはなおさら「叱る指導」が一般的だったと思われる。

「ボス弁」という仕事(「ボス弁」論「第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~」)

全体目次

第1 序論 ~ボス弁自身の成長が何よりも重要~
1 「ボス弁」という仕事
2 勤務弁護士の育成はエゴ・マネジメントを試される仕事である
3 他者は変わらない

第2 採用論
1 成人発達理論に基づく採用基準の策定
2 採用基準の具体例

第3 育成論
1 基本的な心掛け
2 勤務弁護士の成長に対する支援

 

 私は、2020年12月に初めて勤務弁護士を雇用して以来、現在まで常時一人以上の勤務弁護士を雇用し、育成してきた。これは私の弁護士としてのキャリアにおいて大きな転換点であった。

 すなわち、私は2013年12月に弁護士登録をし、勤務弁護士を経て独立したが、そのキャリアのいずれにおいても弁護士を雇用し、あるいはその育成に責任を負ったことはなかった。そして、そのような立場でいる間、私は自分の仕事のパフォーマンスを如何に発揮し、向上するかを考えていれば十分だった。

 ところが、いざ勤務弁護士を雇用し、その育成に責任を負うようになると、彼らの仕事のパフォーマンスを高める方法を考えなければならなくなった。そして、勤務弁護士を育てる際には、かつて自分が成功した方法を勧めたり、押し付けたりすることはむしろ有害であり、これまでプレーヤーとして培ってきたのとは異なる能力が求められることとなった。

 私は当初、そのことに気付かずに数々の失敗をしてきた。つまり、「善意」でアドバイスをしているにもかかわらず、勤務弁護士がそのアドバイスを受け入れないことに不満を鬱積したことが幾度となくあった。また、そのような不満を鬱積すればするほどに、勤務弁護士とのコミュニケーションが悪化し、かえって育成は上手くいかなくなっていった。

 そして、勤務弁護士の育成が上手くいかないと、更に不満が鬱積するという悪循環に陥った。また、勤務弁護士のパフォーマンスが向上しないのであるから、自分の抱える業務量が増大する一方、利益は減少するという最悪の状況に陥った。

 

 私は、最初、そのような状況に陥ったことを勤務弁護士のせいにしようとした。しかし、あるときにふと気付いた。その人を採用したのは他でもない自分じゃないかと。[1]

 結局、私は「ボス弁」という仕事のことを全く知らずに「ボス弁」を始めてしまったのである。そのため、採用において失敗をし、育成でも失敗をした。ただそれだけのことである。

 

 そのような反省を経て、私は「ボス弁」という仕事[2]を考察し、その仕事に正面から向き合おうと考えるようになった。そのため、これから記すのは、そのような私の考察の現状における到達点である。

 

 

[1] 「原因自分論」という考え方があるが、正にそのとおりだと思う。

[2] なお、「ボス弁」の定義は多義的であるが、本稿では「一人以上の勤務弁護士を雇用し、育成する責任を負っている弁護士」と定義する。

新人弁護士研修資料 ~前文・目次~

 お久しぶりです。実に3年ぶりのブログ更新となります。

 この間、私の経営する弁護士法人には大きな変化がありました。すなわち、2020年12月に初めての勤務弁護士が加入し、つい先日の2022年4月には二人目の勤務弁護士が加入しました。そして、現在は、弁護士3名の体制で、収益共同のワン・ファームを運営しています。

 さて、弁護士が私一人の時代は、私がいかに効率的に事件処理をしたり、有効な結果を達成するかを考えていれば十分でした。しかし、勤務弁護士を雇用するとなると、彼らに案件を任せるとともに、彼らにも私と同水準の事件処理をしてもらう必要が出てきます。そのため、私は、2020年12月以降、手を変え品を変え、勤務弁護士に対して「期待するスキル・マインド」を解説し、実践して見せ、そして勤務弁護士に実際に仕事をさせてみるということを繰り返してきました。

 本研修資料は、そのような試行錯誤の過程で、私なりに新人の弁護士に伝えたい大切な事項をまとめたものになります。そして、現在、私の弁護士法人では、まず最初に本研修資料を基にした新人研修を行い、その後、実際のOJT(On-the-Job Training)に入ってもらうことにしています。

 今回は、試しにその研修資料の内容をブログに公開し、所外の方々にも読んでいただこうと考えています。そのようにした動機は2つあります。

 第一に、所外の方、特に弁護士実務家の方の批評を通じて、本研修資料の内容が弁護士実務や新人弁護士育成過程の真実(少なくともその一部)を反映しているものなのかどうかを検証したいからです。なぜなら、実際に研修を受ける新人弁護士には、経験値の浅さや私への遠慮等により本研修資料に対する批評が難しいからです。そのため、こうした資料は常にボス弁護士の独りよがりになる危険をはらんでいます。そこで、記事を読まれた弁護士実務家の方には、ぜひ忌憚のないコメントをいただけたらと考えています。

 また、第二に、今回研修資料の内容をブログに公開することにしたのは、仮に弁護士実務家の方の批評を通じて本研修資料の真実性が(少なくとも一定程度)検証されるのであれば、それは他所の新人弁護士やこれから弁護士になろうとする方にとっても有益であるはずだからです。研修資料の中にも書きましたが、私は、一人目の勤務弁護士を雇用することを決めた頃から、自分が身に付けたスキルを後輩弁護士に伝えたいという気持ちを抱くようになりました。そのため、新人弁護士の皆さんやこれから弁護士になろうとする皆さんが、本記事を読むことによって何かしらを得ることができるのであれば、私にとってこれ以上の喜びはありません。

 

 本研修資料の構成は、「第1 総論 ~弁護士という仕事について~」、「第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~」、「第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~」に分かれています。

 まず「第1」では、「弁護士業も世の中に存在する数多くの仕事のうちの一つに過ぎない」ことを前提とした上で、仕事一般に通じると考える価値観や社会人の成長過程について解説しています。

 次に「第2」では、弁護士業でコアとなるスキル・マインドと考えるものを、各論的に解説しています。

 そして「第3」では、弁護士業に限らず、知的プロフェッショナルとして長期間にわたって活動していくのであれば欠かせないであろう考え方を、補足的に解説しています。

 具体的な目次は以下のとおりです。

 

第1 総論 ~弁護士という仕事について~
1 「仕事」とは何か?
2 弁護士が顧客に提供する「価値」とは何か?
3 期待に応える弁護士になるには

第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~
1 「代理人」としてのあり方
2 弁護士の面接技法
3 弁護士の交渉術
4 法律文書作成

第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~
1 仮説形成と仮説検証が何よりも大切
2 ロジカル・シンキングはあらゆる仕事の基礎
3 「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしい

 

 記事を読まれた皆様には、コメント欄でもSNSでもよいので、コメントをお寄せいただけると嬉しいです。

  なお、記事の内容は、あくまで「私の考える仕事の勘所」であり、決してそれらと異なる仕事の方法論や価値観を否定するものではありません。ただし、研修資料としている以上、私の弁護士法人の内部ではその方法論や価値観を透徹したいと思っています。

「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしい(第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~)

全体目次

第1 総論 ~弁護士という仕事について~
1 「仕事」とは何か?
2 弁護士が顧客に提供する「価値」とは何か?
3 期待に応える弁護士になるには

第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~
1 「代理人」としてのあり方
2 弁護士の面接技法
3 弁護士の交渉術
4 法律文書作成

第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~
1 仮説形成と仮説検証が何よりも大切
2 ロジカル・シンキングはあらゆる仕事の基礎
3 「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしい

 

⑴ 今後40年間、この仕事を続けていく覚悟があるか?

 最後に、皆さんに対して動機づけの話をしておきたいと思う。なぜなら、弁護士の仕事はそれなりのプレッシャーとストレスを伴うところ、もし皆さんが長期的にこの仕事を続けていこうと思うのであれば、動機づけの話は避けて通ることができないからである。

 仮に皆さんが20代、30代の若者であるとするならば、老齢によってリタイアするまで、およそ40年間は弁護士の仕事をする可能性がある。もちろん、今後、皆さんは職場を変えるかもしれないし、企業や行政のインハウスとして働く可能性もあるかもしれない。しかし、どこでどのような仕事をするとしても、弁護士資格を持って仕事をするのであれば、その本質は変わらないはずである。すなわち、弁護士であるならば、多かれ少なかれ広汎な裁量を与えられ、法律の知識と論理的思考力に基づいて一定の成果物(書面、契約書、法律相談への回答など)を作成することを求められ、その成果物の良し悪しによって人の人生や会社の経営を左右することになるのである。よって、そのようなプレッシャーやストレスを背負ってでも弁護士の仕事を続ける理由を見つける必要がある。

 人によっては、弁護士の仕事を続ける理由は「お金」かもしれない。しかし、よく言われるように、金銭によるインセンティブ効果は短期的なものであり、しばらくするとそのお金をもらえることが当たり前のように感じられ、モチベーションを高める効果はなくなる。そのため、少なくとも「お金」は40年間の仕事を支える動機づけにはならないように思う。

 また、人によっては、依頼者から「感謝されること」が弁護士の仕事を続ける理由なのかもしれない。しかし、これもよく言われることであるが、弁護士に助けられた人の全てがその弁護士に感謝してくれるわけではない。むしろ、精一杯事件処理をしたにもかかわらず、不本意な結果に終わり、依頼者から不満の言葉をぶつけられることも多々あるのである。依頼者から「感謝されること」を動機づけにしている人は、そのような場合に折れてしまわないだろうかと不安になる。

 私はよく、弁護士の世界にはダークサイドがあると考える。すなわち、うつ病に罹り、事件処理が全くできなくなった弁護士がいる。また、自尊心を守るためなのだろうか、依頼者を怒鳴りつけるような弁護士もいる。そして、私は、そのようなダークサイドは、一寸先は闇、自分にも降りかかりうるものだと常々考えている。

 だからこそ、ダークサイドに堕ちることなく、長期間仕事を続け、かつ、絶えずスキルやマインドを高めていくため、我々には強力な動機づけが必要である。

 

⑵ 自己実現=自己超越

 そこで参考となるのが、心理学者であるアブラハム・H・マズローが提唱した「欲求五段階」説である。マズローは、人間の欲求には「生理的欲求」、「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」、「承認欲求」、「自己実現の欲求」の五段階があり、人間は低次の欲求が満たされるとより高次の欲求を求めるようになり、高次の欲求ほど強い動機づけをもたらすと述べた。そこで、仮にこの説が真であるならば、我々は最高次の欲求、すなわち「自己実現の欲求」を得ることができたときに、最も強い動機づけを得ることができるということになる。

 ところで、「自己実現」という言葉を聞くとき、我々はそれを「理想の自分になる」といった意味で理解することが多い。そして、それは「成功」とほぼ同義に扱われている。しかし、マズロー自身は、その著書の中で、「自己実現」という用語を上記とは全く別の意味で用いているのである。

 

 例えば、マズローは、著書の中で次のように述べている。

 

 仕事を通じて自己実現を果たすということに関して、次の点を指摘することができる。すなわち、こうした形での自己実現は、おのずと自己超越をもたらし、自己認識や自己意識をまったくともなわない精神状態に導いてくれるのだ。日本や中国をはじめとする東洋には、こうした精神状態に至ろうと、たえず修行を重ねている人びとがいる。仕事を通じての自己実現は、自己を追求しその充足を果たすことであると同時に、真の自我とも言うべき無我に達することでもある自己実現は、利己-利他の二項対立を解消するとともに、内的-外的という対立をも解消する。なぜなら、自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなるからである。内的世界と外的世界は融合し、一つになる。同じことは、主観-客観の二分法についても当てはまる。-『完全なる経営』(金井壽宏監訳、大川修二訳)

 

 

 「自己実現は、利己-利他の二項対立を解消する」、「自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなる」といった部分は理解が難しいかもしれない。マズローは、上記のようにいえる理由を「シナジー」という用語を用いて次のように説明している。

 

 自己実現者は利己主義と利他主義という二分法を超越した存在であり、そのことはさまざまな言葉で表現することができる。一例を挙げれば、自己実現者は他人の喜びによって自分の喜びを得る人間である。つまり、他人の喜びから利己的な喜びを得るのであるが、これは利他主義的なことと言える。私がかつて挙げた例が、ここでも役立つだろう―――たとえば、私が自分の幼い娘に私のイチゴを与え、そのことから大きな喜びを感じるとしよう。自分で食べても喜びを味わえることは確かだ。だが、大好物のイチゴをおいしそうに食べる娘の姿を見て楽しみ、喜びを覚えるとすれば、この私の行為は利己的なのだろうか、それとも利他的なのだろうか。私は何かを犠牲にしているだろうか。それとも、愛他的な行動を取っているのか。結局は自分が楽しんでいるのだから、利己的なのだろうか。ここではっきり言えるのは、利己主義と利他主義を互いに相容れない対立概念としてとらえることには何の意味もないということである。両者は一つに溶けあっているのだ。私が取った行動は全面的に利己的でもなければ、全面的に利他的でもない。利己的であると同時に利他的であると言っても同じことである。より洗練された表現を用いれば、シナジーのある行為なのである

-前掲『完全なる経営』

 

 そして、マズローは、シナジーを実現するための行動について、「B力(B-power)」という固有の用語を用いた上で、次のように説明している。

 

 B力とは、やるべきことをやる能力のことであり、取り組むべき仕事に取り組む能力、現実に存在する問題を解決する能力、完遂すべき仕事を完遂する能力のことである。あるいは、真、善、美、正義、完全性、秩序といったあらゆるB価値を育み、守り、高める能力と言うこともできる。B力はもっといい世界を作る能力であり、世界をより完璧に近づける能力である。最も単純なB力としては、曲がったものをまっすぐに直し、未完成のものを完成させるといったゲシュタルト(全体性への希求)に基づく動機づけを挙げることができる。傾いた壁の絵をまっすぐに直すという行為は、その典型例である。壁の絵が傾いているというのは、ほとんどの人間にとって少々気持ちを乱される状況であり、傾きに気づいた者は、絵の所へ行ってまっすぐかけ直せという心の「要請」を聞き取ることになる。そして、実際にまっすぐかけ直すことで満足感を得ることができる。-前掲『完全なる経営』

 

 

⑶ 人間を好きになること

 さて、以上のことを踏まえた上で、私なりにマズローの思想を解釈すると、次のとおりとなる。

 

①人間の最高次の欲求は、自己実現の欲求である。

②仕事を通じての自己実現は、自己を追求しその充足を果たすことであると同時に、真の自我とも言うべき無我に達することでもある。その意味で、自己実現とは自己超越でもある。

自己実現=自己超越の境地において、利己-利他の二項対立は解消される。なぜなら、自己実現者は他人の喜びによって自分の喜びを得るため、利己的な行為は同時に利他的な行為でもあるからである(これを「シナジー」という。)。

④そして、シナジーを実現するために必要となる能力は、やるべきことをやる能力、取り組むべき仕事に取り組む能力、現実に存在する問題を解決する能力、完遂すべき仕事を完遂する能力である。それはもっといい世界を作る能力であり、世界をより完璧に近づける能力である。

 

 すなわち、眼前の取り組むべき仕事に取り組み(④)、そのことが他人に喜びをもたらすことを通じて自分の喜びを得る境地(③)こそが、真の自我とも言うべき無我(自己超越)であり(②)、自己実現ということである(①)。そして、自己実現の欲求を得ることができたとき、我々は最も強い動機づけを得ることができる。

 

 ところで、上記が成り立つためには、他人の喜びを自分の喜びと感じること、すなわち人間が好きである必要がある。しかし、これがなかなか難しい。なぜなら、人は自分の配偶者や子ども、親、兄弟、友人らの喜びであれば自ずと自分の喜びと感じられるものの、関係の薄い他人の喜びを同様に感じることは難しいためである。そのため、自己実現=自己超越の道とは、実質的には人間を好きになる道であるといえる。

 では、人間を好きになるためにはどうすればよいのだろう?これについては、私にも確たる考えがあるわけではないが、経験的に述べれば次の3つのアプローチが重要ではないかと思う。すなわち、エゴイズムを超越すること、他者の境遇を想像する習慣を持つこと、そして実際に他者に貢献し続けることである。

 そして、上記のうち3つ目は仕事を通じて実現できるものの、1つ目と2つ目は基本的に私生活を通じて実現されるものである。そのため、弁護士になった皆さんには、仕事に励むだけでなく、充実した私生活を送ってもらいたい。そして、皆さんが人間を好きになり、皆さんなりの方法で「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしいと心から願っている。

 

⑷ 参考書籍等

アブラハム・H・マズロー『完全なる経営』(日本経済新聞出版社

・ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房

ロジカル・シンキングはあらゆる仕事の基礎(第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~)

全体目次

第1 総論 ~弁護士という仕事について~
1 「仕事」とは何か?
2 弁護士が顧客に提供する「価値」とは何か?
3 期待に応える弁護士になるには

第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~
1 「代理人」としてのあり方
2 弁護士の面接技法
3 弁護士の交渉術
4 法律文書作成

第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~
1 仮説形成と仮説検証が何よりも大切
2 ロジカル・シンキングはあらゆる仕事の基礎
3 「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしい

 

⑴ 5W1Hの問いかけを習慣とする

 次に、皆さんにはロジカル・シンキングがあらゆる仕事の基礎であることをお伝えしたい。なぜなら、現代の仕事のほとんどは多かれ少なかれ知識労働であるところ、知識労働においては物事を考え、何らかの問題を解決することが仕事だからである。すなわち、現代では「考える方法」を知らなければ、仕事自体が成り立たなくなっている。そして、言うまでもなく、ここでいう「考える方法」こそがロジカル・シンキングである。

 さて、ロジカル・シンキングの技術やフレームワーク(定型的な思考の枠組み)については、かなりの種類があるため、興味があれば参考書籍等を参照してもらいたい。しかし、限られた紙幅の中で皆さんのためにお伝えすることがあるとすれば、それは次の3つ、すなわち5W1Hの問いかけを習慣とすることSo what?の問いで突き詰めて考えること、そしてピラミッドストラクチャーとロジックツリーを常に頭に描くことである。

 

 まず、5W1Hの問いかけを習慣とすることとは、他人の話を聞いたり、文章を読んだり、あるいは自分が話をしたり、文章を書いたりする際に、頭の中に絶えず疑問文(「When:いつ」「Where:どこで」「Who:だれが」「What:何を」「Why:なぜ」「How:どのように」)を持ち、思考停止に陥らないようにするということである。そして、そのような習慣を持っていれば、事実の聴き取りに過不足がなくなるし、仮説にも疑問が少なくなるのである。

 なお、個人的に皆さんに特に重視してもらいたい問いは、Why:なぜ」である。例えば、皆さんが何か仕事を任された際には、まずその仕事の目的や理由を考える癖を付けてもらいたい。そして、その仕事の目的や理由を正確に理解することができれば、達成すべきクオリティを把握することができ、仕事に過不足がなくなるのである。また、場合によっては上司の指示する方法とは別の方法のほうがその仕事の目的を達成するために合理的であることがわかってくるのである。

 私の経験の範囲でいえば、「考える」とは結局、どのような問いを持つかということの裏返しであると考えている。そして、適切な問いを立てることさえできれば、大抵の場合、人はその問いを解決することができるのである。

 

⑵ So what?の問いで突き詰めて考える

 さて、5W1Hの問いかけを習慣とすることは、「考える」ことの基礎である。では、さらに進んで「深く考える」ために我々は何をすればよいのか?私は、その技術の一つがSo what?の問いを持つことであると考える。

 これはすなわち、仕事において何らかの結論を出した場合、その結論にSo what?(それで?)の問いをぶつけ、結論をとことん深めるのである。

 例えば、民事の交渉事件において、相手方の代理人弁護士から当方の依頼者に対して金銭を請求する通知書が届いたとする。その事件の主任である皆さんは、まず通知書が届いたことをボス弁や依頼者に報告する必要がある。ところが、その際、「こんな通知書が届きました。」と報告しているだけでは、主任としてちょっと心許ないと思ってしまう。

 そこで、So what?(それで?)が役立つことになる。

 すなわち、

 

「こんな通知書が届きました。」

                それで?

「内容は100万円の賠償金を

請求するものであり、その根拠は

依頼者が支払いを口頭で約束した

というものです。」

                それで?

「しかし、私は、相手方の主張する

根拠には理由がないと考えます。

なぜなら、相手方の主張する口頭の

約束というのは、申込み及び承諾に

は達していないと考えるためです。」

                それで?

「反論の書面を作成したので

決裁を下さい。」

                YES または NO    

 

 このように、So what?(それで?)を通じて結論を深めていくと、大抵の場合、最後は具体的な行動に行き着くことになる。そして、仕事において真に価値を持つ結論とは、具体的な行動に即座に結び付く結論なのである。

 なぜなら、ボス弁も依頼者も、弁護士である皆さんに対し、何らかの仕事を任せ、その仕事を通じて何らかの問題解決をしたいのである。そして、その際、具体的な行動をしてもらうのはもちろんのこと、その行動を考える作業を極力主任である皆さんに委ね、自分はその採否を判断する仕事に徹したいのである。

 皆さんからすれば、ボス弁や依頼者が楽を求めているように思われるかもしれないが、立ち止まって考えていただきたい。ボス弁や依頼者に楽をさせるというのは、皆さんが彼らに時間を生み出しているということであり、つまりは価値を生んでいるということである。そして、そのような弁護士になることは、ひいてはキャリア形成や顧客獲得の点で皆さん自身の利益になるはずである。

 

⑶ ピラミッドストラクチャーとロジックツリー

 最後に、ロジカル・シンキングのフレームワークの一つであるピラミッドストラクチャーとロジックツリーについて言及しておきたい。

 まず、基本的な概念について説明しておくと、ピラミッドストラクチャーとは、「4 法律文書作成」の項で解説した<図3>のような、結論と論拠(あるいは結論と説明)をピラミッド状に図式化したものである。これに対し、ロジックツリーとは、ある概念を分析するための図式であり、その用途に応じてWhyツリー(原因研究)、How ツリー(問題解決)、What ツリー(要素分解)などがある。

 ピラミッドストラクチャーとロジックツリーの具体的な活用法については、参考書籍等を参照してもらいたい。私がここで指摘しておきたいのは、皆さんが今後何かを話したり書いたりする際には、常にピラミッドストラクチャーやロジックツリーを頭に描いておいてもらいたいということである。

 仮に皆さんがそのようにできていれば、自ずと聞き手や読み手に理解しやすい話し方や文章の書き方ができるようになるのではないかと思う。例えば、刑事事件の弁論では、「被害者の推定死亡時刻当時の被告人のAさんの行動について説明します。まず・・・」といった話の切り出しよりも、「被告人のAさんは無罪です。その理由はAさんには明白なアリバイが成立するからです。これからAさんにアリバイが成立する理由を述べていきます。その理由は3つあります。まず・・・」といった話の切り出しのほうが理解しやすいのではないだろうか。言うまでもなく、そのような話の構成はピラミッドストラクチャーを意識している。

 また、皆さんが文章を書くとき、ロジックツリーを意識しつつ、それによって法律要件とその考慮要素を分析することができていれば、文章に書かなければならないことを見落とすことが少なくなると思う。

 このようにピラミッドストラクチャーとロジックツリー(ひいてはロジカル・シンキングそのもの)は、仕事におけるOS(オペレーティングシステム)のようなものである。そのため、必ず社会人一年目のできる限り早期に身に付けるようにしてもらいたい。

 

⑷ 参考書籍等

・照屋華子/岡田恵子『ロジカル・シンキング 論理的な思考と構成のスキル』

東洋経済新報社

・バーバラ・ミント『新版 考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』(ダイヤモンド社

・大石哲之『コンサル一年目が学ぶこと』(ディスカヴァー・トゥエンティワン

ロジカルシンキングの武器②ピラミッドストラクチャー

https://youtu.be/zX5LyLqkl28

仮説形成と仮説検証が何よりも大切(第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~)

全体目次

第1 総論 ~弁護士という仕事について~
1 「仕事」とは何か?
2 弁護士が顧客に提供する「価値」とは何か?
3 期待に応える弁護士になるには

第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~
1 「代理人」としてのあり方
2 弁護士の面接技法
3 弁護士の交渉術
4 法律文書作成

第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~
1 仮説形成と仮説検証が何よりも大切
2 ロジカル・シンキングはあらゆる仕事の基礎
3 「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしい

 

⑴ 仮説形成とは?

 「仮説」とは、限られた時間・情報の中で下す仮の結論のことである。

 ビジネスにおいては、網羅的な情報収集を行い、それを分析した上で完璧な結論を出すというプロセスでは、時間がかかりすぎ、せっかくのチャンスをふいにしてしまうことがある。また、網羅的な情報収集では、実行に不必要な情報まで集めてしまうことがしばしばであるため、結果として非効率な仕事となってしまう。そのため、ビジネスにおいては、できるだけ早期に「仮説」を形成し、その仮説から逆算する形で調査や活動をしていくという手法が求められるのである。

 弁護士業務の中で具体的に説明すると、例えば万引き(窃盗)の刑事弁護事件を受任したとする。このときに弁護人である皆さんは、まず、頭の中でもよいので弁論要旨又は終局処分意見書を作成すべきである。すなわち、ここでいう弁論要旨や終局処分意見書が「仮説」に当たる。

 もちろん、その段階で作成する弁論要旨等は、調査が未了であるからあくまで仮の結論である。しかし、「被害者との示談成立」、「監督者の存在」、「被告人の反省」といった情状事実に関する仮の結論を基に、これらに必要となる調査や活動(ex.示談金の準備、被害者への連絡、監督候補者となる親族への連絡、反省文の作成)を行っていけば、実現すべき結果(ex.起訴猶予、執行猶予判決)を最短で得ることができる。

 同様に、民事事件の交渉を行う場合にも、初期段階で必ず解決方針を持つようにしてもらいたい。例えば、交通事故の損害賠償交渉事件を受任した場合、いわゆる赤い本に則って請求額を算定するにとどまるのではなく、予想される相手方の反応を踏まえた上での解決の見通しを持ち、依頼者及びボス弁にも示すようにしてもらいたい。そしてその後、そのような解決の見通しを実現するために、参考となる判例を調査したり、証拠を収集したり、書面を作成したりすべきである。

 ところで、仮説形成の真髄は、「目に見えないもの」を想像力を用いて推認する点にあるというべきである。例えば、商品開発の仕事をしている人であれば、新商品のコンセプトを考える際、「現在市場には存在しないが、人々が求め、社会の役に立つであろう商品」という目には見えないものを発案しなければならないはずである。そのような知識労働に用いられるのが想像力であり、その実態は仮説形成である。

 同様に、我々弁護士もまた、交渉事件に望むにあたっては、「予想される相手方の反応」といった目には見えないものを推認し、意思決定をする必要がある。また、そもそも「依頼者の本心」という目には見えないものをできる限り正確に推認することができなければ、良い交渉はできないし、顧客満足にもつながらない。さらに別の例を挙げれば、契約書や規約を作成する際、我々は「その契約書や規約が実際のビジネスに用いられる場面とそこで起こり得るトラブル」を推認することができなければ、不完全な契約書等を作ってしまうことになるのである。

 もちろん形成した仮説がそっくりそのまま「真実」と合致することはあり得ないし、その対象が「目に見えないもの」であればあるほど、仮説の精度は下がるはずである。特に、我々が他者の気持ちや考えを正確に推認することは不可能だと思うし、仮にそれをできると考えている人がいるとすれば、それは不遜極まりないことだと思う。

 しかし、だからといって、それは仮説形成をやめる理由にはならないと考える。なぜならば、仮説と「真実」とのずれは、次項に述べる仮説検証の過程で埋めていくことができるからである。例えば、他者の気持ちや考えを正確に推認することができなかったとしても、その人に対して「あなたが考えていることは、こういうことか?」と聞いてみることはできる。その意味では、「真実」に到達する最短の手段は、仮説形成→仮説検証→仮説形成→・・・の過程を可能な限り繰り返すことなのかもしれない。

 また、仮説形成・仮説検証の習慣を続けていれば、少しずつではあるが皆さんの形成する仮説の精度は上がってくる。そして不思議なことに、仮説は、それが「真実」そのものではなかったとしても、ある程度の精度を備えていれば十分な成果をもたらすのである。

 少々大げさにいえば、仮説形成・仮説検証の習慣は、皆さんの社会人としての(そして弁護士としての)キャリアを根本から分けてしまうほどの影響力を持つと私は考えている。そのことを信じ、日常の仕事の中で仮説形成・仮説検証を習慣としてもらいたい。

 

⑵ 仮説検証とは?

 さて、仮説とはあくまで仮の結論であるから、その後の調査や活動の過程を通じて、その仮説に修正の余地がないかどうかを常に検証することが重要である。そして、仮説に修正の必要が生じたときは、勇気を持ってその仮説を修正することが重要である。

例えば、先の刑事弁護の事例で、弁護人である皆さんが当初「被害者との示談成立」を重視していたとする。ところが、被害者の属性、例えば公的機関であったり、会社の方針で禁止されていたりすることによって、被害者との示談が不可能であることが明らかになったとする。そのような場合には、速やかに仮説を修正し、「監督者の存在」、「被告人の反省」といった他の情状事実に重点を置き換える必要がある。

また、民事事件の交渉にあたっていたところ、相手方から思いがけない法的主張が提出されたとする。そして、その法的主張が説得的であった場合には、皆さんは当初の仮説を修正した上で、その法的主張を前提とした上でなお当方に有利な主張ができないかといったことを考えていく必要がある。

このように、仕事を進めるにあたっては、仮説形成と仮説検証を絶えず繰り返していく必要がある[1]

これに対し、仮説を持たないまま仕事を進めていると、当該事件の解決は常に相手方の事情に左右されることになってしまう。そうではなく、皆さんには仮説を持った上で事件の解決を主導するような仕事をしてもらいたい。

 

⑶ 参考書籍等

・齋藤嘉則『新版 問題解決プロフェッショナル―思考と技術』(ダイヤモンド社)

・仕事力とは「仮説力」である

https://youtu.be/pf4eLy22ZCk

 

 

[1] そのことをPDCA(Plan,Do,Check,Action)を回すと言い換えてもよいかもしれない。

法律文書作成(新人弁護士研修資料「第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~」)

全体目次

第1 総論 ~弁護士という仕事について~
1 「仕事」とは何か?
2 弁護士が顧客に提供する「価値」とは何か?
3 期待に応える弁護士になるには

第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~
1 「代理人」としてのあり方
2 弁護士の面接技法
3 弁護士の交渉術
4 法律文書作成

第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~
1 仮説形成と仮説検証が何よりも大切
2 ロジカル・シンキングはあらゆる仕事の基礎
3 「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしい

 

⑴ ロジカルに書く≒ロジカルに考える

 民事訴訟の実務は、口頭主義と言いながらも、主張は事前に書面(準備書面)で準備することとなっており、期日において口頭でやり取りされる情報は極めて少ない。また、訴訟前の交渉事件においても、重要な主張は書面によってなされることが多いといえる。そのため、弁護士にとって、(法律)文書を作成するのは仕事のメインといっても差し支えないといえる。
 ところで、文書を作成するにあたってまず出発点となるのは、「ロジカルに書く」ということであり、これは「ロジカルに考える」こととほぼ同義だということである。したがって、ロジカルな文書というのはロジカルに考えることができていなければ書けないし、反対にロジカルな文書を書かなければ真にロジカルに考えることはできないのである。

 さて、「ロジカルに書く」(≒「ロジカルに考える」)というのは多義的なものであるが、こと文書作成との関連でいうと、それは第一に幹においてロジカルであることであり、第二に枝葉においてロジカルであることだと考える。

 

 まず幹においてロジカルであるというのは、当該文書を書く目的を意識した上で、その目的を支える論拠等が文書の骨格としてしっかり示されているということである。いま述べた概念を図式に表すと、図3のようになる。

 

 


 次に、枝葉においてロジカルであるというのは、文書中の各項目(ex.論拠)を構成する文の一つ一つが、論理的に繋がり、固有の意味を持っており、かつ、読み手に疑問が生じないように書かれているということである。その際に注意すべきことは次の3つである。

 すなわち、第一に、文が論理的に繋がっていることを確認するため、接続詞を意識するとよい。また、第二に、文が固有の意味を持つようにするため、ワンセンテンス・ワンメッセージを心掛けるとよい。そして、第三に、読み手に疑問が生じないようにするため、推敲を繰り返し、読み手の立場に立って自分の書いた文書を読むとよい

 

 上記のように「ロジカルに書く」(≒「ロジカルに考える」)ことができていれば、自ずと文書の形式が整ってくる。ここでいう形式が文書作成において極めて重要である。なぜなら、文書の実質(内容)が法律・判例の知識や証拠、事実であることはいうまでもないが、それを読み手の認識に位置付ける形式(器)が整っていなければ、その実質は読み手に認識されないままとなってしまうからである。また、「ロジカルに書く」ことは「ロジカルに考える」ことと同義であると述べたが、仮にロジカルに考えることができていなければ、本来主張すべき実質(法律・判例、証拠、事実など)を見落としてしまうこともあるからである。

 

⑵ アウトラインを作成する

 さて、それでは文書作成の方法論に移っていこう。私は、ロジカルな文書は次の過程を踏んで作成されると考えている[1]

 

 すなわち、

 

  アウトラインを作成する

      ↓

  アウトラインを文章にする

      ↓

  文章の推敲を繰り返す

 

である。

 

 「アウトライン」とは、文書の骨子と理解してもらえれば十分である。一つ例を挙げれば、皆さんも司法試験や司法修習で論文式答案を作成する際、まず答案構成を作っていたのではなかろうか。それは一種のアウトラインである。

 ロジカルな文書を作成するにあたっては、まず幹においてロジカルであることを確認するためにアウトラインを作成することが不可欠なのである。

 ところで、私はアウトラインを作成するためのツールとして、「アウトライナー」と呼ばれるソフトの一つである「WorkFlowy」を使っている。このようなツールを使う利点としては、各アウトラインの階層が可視化されることやアウトラインの移動がドラッグ&ドロップでできること、そしてコピー&ペーストをすることによってアウトラインをそのまま文章に変えることができることなどが挙げられる。

 

⑶ 推敲を繰り返す

 さて、アウトラインが完成したら、そのアウトラインを文章にしていく。私の場合、アウトラインを作成する段階で、ほぼ文章に近いものを作成してしまうことも多い。その場合、アウトラインをコピー&ペーストすれば、ほぼ文章は完成することになる。

 これに対し、アウトラインを作成する段階では見出し(+要点)のみを作成している場合もある。そのような場合には、各見出しを埋めるようにして文章を書いていくことになる。

 そして、兎にも角にも文章としての形式が整った場合、これを「ファーストドラフト」と呼ぶ。しかし、ファーストドラフトの状態では決して文書は完成していないため、間違ってもそれをボス弁や顧客には出さないように注意されたい。

 では、ファーストドラフトを完成版に仕上げていくにはどうすればよいかというと、そのための方法が推敲である。推敲のコツを2つだけ挙げるとすれば、必ず読み手の立場に立って読むこと、そして徹底して修正することである。

 まず前者について述べると、ファーストドラフトというのは多かれ少なかれ自分目線で書かれていることがほとんどである。そして、読み手の目線で書かれていない文書は、読み手にとって非常に読みづらいのである。仮に文書の目的が、読み手に自分の意見をわかってもらうことにあるとするならば、そのような文書が失敗であることは言うまでもない。

 そこで、推敲においては、読み手の立場に立ってその文書を読み、読み手にとって読みやすい表現に変えていく作業が必要となるのである。

 もっとも、上記の説明だけでは抽象的であるように思われるため、具体的なコツを一つ挙げておきたい。それは、読み手が一文ごとに「イエス」と答えながら読むことのできる文章を心掛けるということである[2]

 例えば、私は前項において「アウトライン」という概念を説明する際に、「答案構成」という例を挙げた。この文章の読み手は「司法試験に合格し、司法修習を終えた新人弁護士」なのであるから、答案構成がアウトラインの一例であることを説明すれば、アウトラインが何たるか理解してもらえると考えたからである。同様に、裁判官や弁護士といった法律専門職に文書を読んでもらう場合には、その共通言語というべき法的三段論法に沿って文章を書くべきである。なぜなら、裁判官や弁護士は法的三段論法に則って、大前提(規範)が真であるか、小前提(事実)が真であるか、ひいてはその論証全体が真であるかを判断するからである。

 これに対し、読み手が明らかに疑問を持つ文章というのは、不完全といえる。例えば、読み手が「なぜそのようにいえるのか?」という疑問を抱くのに、その理由が示されていない文章、読み手が知らないであろう用語が出てくるのにその用語についての定義や解説がなされていない文章、自分の見解を表明しただけであり、客観性を欠く文章などである。推敲においては、そのような文章を修正したり、補うことにより、読み手が「イエス」と思える文章を作らなければならないのである。

 そして、推敲のもう一つのコツは、徹底して修正することである。繰り返しになるが、よほどの文章の天才でもない限り、ファーストドラフトの状態で完成版と呼べるようなものができあがることはまずない。ファーストドラフトには必ず違和感を抱く箇所があり、それは読み手にとって読みづらい箇所であったり、論理的に整合していない箇所であることが多い。そこで、推敲の過程で文章に違和感を抱いた場合、その違和感の原因を必ず追究するようにし、そのままにしないでいただきたい。この作業には誠実さと勇気を必要とするのである。

 「誠実さと勇気」と言われてもピンと来ない可能性があるため、具体的なコツを一つだけ挙げるとすれば、よほどの熟練にならない限り、推敲は最低10回は繰り返したほうがよい。すなわち、テンスドラフト(Tenth Draft)くらいで完成と考えていたほうが、特に新人のうちは無難である。

 

⑷ 参考書籍等

田中豊『法律文書作成の基本 第2版』(日本評論社
・倉島保美『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』(ブルーバックス
戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(NHKブックス)
・バーバラ・ミント『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』(ダイヤモンド社
野矢茂樹『論理トレーニング101題』(産業図書)

 

 

[1] 田中豊『法律文書作成の基本 第2版』(日本評論社)のp.6~44に「法律文書の共通作成プロセス」という項があるため、詳しくはそちらを参照されたい。

[2] 私はこれを、交渉の技術になぞらえて「イエスセットの文章」と呼んできた。

弁護士の交渉術(新人弁護士研修資料「第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~」)

全体目次

第1 総論 ~弁護士という仕事について~
1 「仕事」とは何か?
2 弁護士が顧客に提供する「価値」とは何か?
3 期待に応える弁護士になるには

第2 各論 ~コアとなるスキル・マインド~
1 「代理人」としてのあり方
2 弁護士の面接技法
3 弁護士の交渉術
4 法律文書作成

第3 終わりに ~新人の皆さんに伝えておきたいこと~
1 仮説形成と仮説検証が何よりも大切
2 ロジカル・シンキングはあらゆる仕事の基礎
3 「何のために弁護士の仕事をするのか?」に対する回答を見つけてほしい

 

⑴ 弁護士の行う「交渉」とは何か?

 弁護士の業務の中で最も多くの割合を占めるのは、訴訟前の交渉事件である。なぜなら、事件のほとんど全ては訴訟前の交渉段階から始まり、そのうち一部が訴訟事件に移行するにすぎないからである。

 また、訴訟事件も、判決ではなく和解で解決される割合が7割程度といわれている。そして、和解というのは和解条項を巡る交渉の一つであることを考えると、やはり弁護士の業務のほとんど全ては交渉であるといえる。

 では、弁護士の行う「交渉」とは何か?私は次のように定義したいと思う。

 

 弁護士の行う「交渉」とは、判決というBATNA(Best Alternative to Negotiated Agreement。日本語訳は「不調時対策案」。)を巡って行われる対立当事者間の合意形成過程のことである。

 

 すなわち、判決というのは、当事者間の合意形成が不可能な状況に陥った場合の最終的な紛争解決手段である。これに対し、先に述べたとおり、紛争のほとんどは判決ではなく、当事者間の合意によって解決されている。その理由は、当事者間の合意による解決のほうが、判決よりも当事者にとって利益な面があるためである[1]。そのため、弁護士は、判決による結果を慎重に予想しつつ、仮に当事者間の合意による解決が判決による結果を上回る利益を依頼者にもたらすようであれば、積極的に合意形成を図る必要があるのである。

 

⑵ 感情を交渉から分離する

 前項で述べたことを前提とすれば、交渉は、当事者双方が

  当事者間の合意による解決 > 判決による結果

と判断したときに成立することになる。

 

 ところが、上記のような合理的な判断を困難にする要素が存在する。それは、人間の持つ感情である。

 憎しみと呼ばれる感情がその典型である。例えば、刑事事件や交通事故といった被害者/加害者が存在する類型の事件の場合、「被害者」は「加害者」に対して強い憎しみ(被害感情)を抱くことがあり、そのような感情が合理的な判断を難しくすることがある。すなわち、そのような人は「加害者からの面前の謝罪」や「加害者をできる限り苦しませること」を求めるようになり、仮に「加害者」側からの示談の提案が客観的に合理的なものであったとしても、それに応じる姿勢を見せなくなってしまうのである。

 そのような場合に、「加害者」側の弁護士として当事者間の合意を促していくのであれば、まず相手方の感情をその交渉から分離することが必要となる。

 では、相手方の感情を交渉から分離する方法とは何か?私は、その方法の一つが傾聴ではないかと考える。

 すなわち、相手方の訴える「被害感情」のストーリーを、まずは相手方の立場になって聴くのである。ただし、「相手方の立場になって聴く」ということは、相手方の利益を尊重するという意味では決してない。「聴く」ことと「する」こととは全く異なるのである。すなわち、皆さんは依頼者の利益を代表する弁護士なのであるから、相手方の立場になって話を聴くからといって、依頼者にとって不利な発言や約束などは決してしてはならない[2]

 さて、私は勤務弁護士であった頃、暗礁に乗り上げたとある交通事故の交渉事件をボス弁から割り当てられ、「被害者」である相手方との示談交渉に臨んだ。その交渉事件は相手方が感情的になっていて話にならないというので、やむなく前任者から引き継いだものであった。ところが、私が上記の考えに沿って相手方の訴える「被害感情」のストーリーを傾聴してみたところ、相手方はしばらくして「私も無理なものは無理とわかっているので、本音でいえば早くこの件を解決したいんですよ。」と言い、交渉の土台に乗る姿勢を示したのである。そこで、私が保険会社側の提示額を伝えたところ、相手方は「それ以上上がりませんか?」と聞いてきた。これに対し、私が「残念ながら、これ以上を希望されるのであれば裁判に移行することになります。」と伝えたところ、相手方は「そういうことなら、この内容で構いません。示談書を送って下さい。」と答えた。こうして私は相手方に示談書を郵送し、無事示談が成立したのである。なお、成立した示談額はいわゆる自賠責基準をわずかに超える程度のものであった。

 なお、ここで誤解しないでいただきたいのは、私はあらゆるケースにおいて相手方の話を傾聴しろと述べているのではないということである。まず、相手方が十分に合理的な交渉をすることのできる者(ex.代理人弁護士など)であるならば、傾聴などせず、最初から合理的な交渉を行うべきである。また、相手方が感情に捕らわれていたとしても、当該相手方と合意形成をする必要がないのであれば、やはり傾聴の必要はない。なぜなら、そのような場合には、判決というBATNAによって粛々と事件を解決すれば足りるからである。

 

⑶ BATNA自体とこれに対する相手方の認識を操作する

 さて、合理的な判断をなし得る当事者間の交渉が可能となったところで、弁護士は、当方にとって最大限有利な合意を形成するために何をすべきであろうか?私は、その一つは判決による結果(BATNA)を当方にとって最大限に有利に操作することであり、もう一つは判決による結果(BATNA)に対する相手方の認識を最大限相手方にとって不利に操作することだと考える。

 

 前項において、交渉とは、当事者双方が

  当事者間の合意による解決 > 判決による結果

と判断したときに成立すると述べた。仮にそうだとすれば、「当事者間の合意による解決」を当方にとって有利なものにするためには、「判決による結果」を当方にとって客観的に有利なものとすることが近道である。なぜなら、仮に交渉が決裂した場合であっても、「判決による結果」に基づいて十分に有利な解決を手にすることができるため、当方は強気な交渉態度を取ることができるためである(反対に、「判決による結果」が客観的に不利であれば弱気な交渉をせざるを得なくなる。)。

 ここで「判決による結果」を客観的に有利なものとする手段とは、有利な証拠の収集、有利な主張構成の立案、有利な判例の援用といった訴訟戦術全般のことである。そのため、弁護士は、優秀な交渉者であろうとするのであれば、同時に優秀な訴訟戦術家でなければならないのである。

 さらに、「判決による結果」を当方にとって客観的に有利なものにするとともに重要なのが、「判決による結果」に対する相手方の認識を相手方にとって不利に操作することである。なぜなら、仮に「判決による結果」を客観的に操作することが難しい事案であっても、これに対する相手方の認識を操作することができれば、相手方は相対的に弱気な交渉をせざるを得なくなるため、「当事者間の合意による解決」のラインは当方寄りになるためである。

 そして、そのための一つのテクニックが、「演技」ではないかと思う。すなわち、客観的には当方に不利と思われる状況であったとしても、相手方に対してはその素振りを見せず、むしろ態度や言葉や文章などを通じて相手方が不利と思わせるのである。

 このように、弁護士の行う交渉はいずれも判決というBATNAを中心に見据えて行われるものである。したがって、究極的にいえば、弁護士の行う交渉の成否は、「判決による結果」を正確に推測し、それ自体を有利に操作する(あるいはそれに対する相手方の認識を操作する)という、法的思考の優劣に左右されるのである。

 

⑷ 「安全牌」を少し超えるラインで合意を目指す

 さて、交渉を経て、当事者が互いに「判決による結果」に対する認識を持つようになると、自ずと双方にとっての合意のラインが見えてくることになる。これをZOPA(Zone of Possible Agreement。日本語訳は「合意可能領域」。)と呼ぶ。

 そして、ZOPAの重なった範囲において、当事者間の合意が成立する可能性があることがわかってくるのだが、このときシビアな交渉を要せずとも合意が成立するラインが同時に見えてくるのである。これを私は「安全牌」と呼んでいる。

 

 例えば、皆さんが離婚事件の妻側に立ち、夫に対して養育費の請求を行っていたとしよう。当初の請求額は月額10万円であり、これに対する夫側の主張額は月額6万円であった。その後、調停を何度か重ねて、皆さんは夫側の収入が不安定であることを知り、調停委員からの説得もあって請求額を月額9万円に修正した。また、夫側も調停委員からの説得を受けて主張額を月額7万円に修正した。

 

 このような事例を見たとき、皆さんの頭にも「月額8万円」という合意のラインが見えたのではないだろうか。「安全牌」とは、そのような誰にでもわかるような合意のラインを指すのである。

 しかし、このとき立ち止まって考えていただきたい。なぜなら、専ら「安全牌」で合意形成をしている弁護士は、それ以上交渉力の向上が望めないし、いわゆる替えのきく仕事をしているため、そのうち顧客から選ばれなくなっていくからである。

 そこで、交渉に臨む際には、見えてきた「安全牌」を少し超えるラインで合意を目指すことを習慣としてほしい。例えば、先の事例では、BATNAを踏まえた上で、月額8万5000円というような合意形成ができないかどうか、ギリギリまで踏ん張ってみてほしいのである。

 そのような仕事の仕方は、短期的には非効率と思われるかもしれないが、長期的には必ず報われる日が来るはずである。

 

⑸ 必ずしも合意にこだわるべきではない

 さて、ここまで合意形成の手法について述べてきたが、私が最後に伝えたいことは、優れた交渉をしたいのであれば、必ずしも合意にこだわるべきではないということである。

 なぜなら、依頼者にとって合意よりも判決が有利な場合、すなわち

  当事者間の合意による解決 < 判決による結果

の場合にまで、弁護士が合意形成を目指す必要はないからである。時折、あまりにも訴訟を嫌うがあまり、明らかに判決よりも不利な内容で相手方との合意をしてしまう当事者や弁護士を見ることがあるが、そのようなことは自戒を込めて避けなければならないと思う[3]

 また、合意形成において主導権を握るためには、これ以上は譲歩しないという決意表明、すなわち最後通牒を相手方に言い渡すことが有効である。そのためには、合意によらない解決手段を常に手札として持っておくことが必要なのである。

 

⑹ 参考書籍等

・フィッシャー&ユーリー『ハーバード流交渉術 イエスを言わせる方法』(知的生きかた文庫)

大橋弘昌『どんなときも優位な状況をつくれる 負けない交渉術』(朝日新聞出版)

・D・カーネギー『人を動かす』(創元社

・法的交渉の技法と実践~問題解決の考え方と事件へのアプローチ~

https://kenshu.nichibenren.or.jp/product/detail.php?pid=22751

 

 

[1] その利益とは、例えば判決による不確定な結果を避けることができること、判決よりも柔軟な解決ができること、費用と時間が節約できること、判決に至るまでの精神的負担を避けることができることなどである。

[2] 心の一面では相手方に心底共感しつつ、他面ではその相手方の利益をでき得る限り抑制するというのが、プロの交渉者のあり方ではないかと思う。

[3] その意味でも、弁護士は訴訟に強い必要があると思う。